ヤン・イクチュン氏来日のキセキ

 久しぶりに連絡してきて「柴口さんは絶対この映画、観て下さい」と彼女は言った。聞けば、大学時代に彼女の同級生だったA氏が自主制作した短編映画に主演したヤン・イクチュン氏が、監督・脚本・主演を務めた映画が福岡市内の映画館で上映されるとのことだった。なんだか一方的な話だった。が、以前にA氏の自主映画制作の際に声をかけられながらも断った僕の経由もあり、「必ず観るよ」と彼女に約束をした。

 結局、上映期間は過ぎた。近郊での上映はないかと捜し、下関に残る唯一の映画館シアターゼロで僕は『息もできない』を観た。それは、息もできない映画だった。

 彼女から伝え聞くヤン氏の温厚な人柄からはかけ離れた映画だった。人の内にあるぬぐえない過去、ぬぐえない呪縛、ぬぐえない己を一塊にして叩きつけた映画だった。これらの悲しみを葬ろうとするヤン氏の猛りに打ちのめされ、僕は映画館の暗がりで一人泣いてしまった。

 僕は彼女に持ちかけた。「ファンレターを書く。それをヤンさんに届けられないか?翻訳はちょっとアテがある」。順序立てていえば、僕が手紙を書く→それを誰かに翻訳してもらう→それを彼女に届ける→それがA氏に渡る→運が良ければヤン氏に届く。と、どこまでも細く遠いツテである。

 韓国からこちらの大学に留学している男女の学生にこの企てを話すと二人の目は輝いた。が、問題はあった。二人は通訳が生業ではない。日本に来て間もない留学生なのだ。日本語敬語の翻訳は特に難しいと聞き、僕はヤン氏への手紙をタメ口で書くことにした。それを二人がハングルの敬語に変換させて翻訳するという作業だ。

 結果このファンレターはA氏からヤン氏に送られたものの、当然ながら何の音沙汰もなかった。やがて数ヶ月が過ぎて、突然にA氏から着信が鳴った。ヤン氏は僕の手紙を読んでくれていて、それどころか僕がスタッフを務める映画祭に行きたいのだという。

 映画祭のパンフレットは既に刷り上っていて、ゲスト欄には当然にヤン氏の名はない。それでも映画祭実行委員会はヤン氏を招くと決定した。時を同じくして、本作はキネマ旬報の外国映画第1位獲得と外国映画監督賞、毎日映画コンクール外国映画ベストワン賞を受賞した。

 名もなき一ファンが書いた手紙に監督が応えた形だ。よって各所から様々クレームもついた。が、それでもヤン氏が飛行機をキャンセルすることはなかった。

http://kaikyo.eiga.gr.jp/

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